昭和41年02月18日 朝の御理解



 教祖金光大神の助かり、教祖金光大神様の助かられ方とでも言うか、私共が様々な難儀のなかから解放される。そして真実の幸せを求めての信心焦点と言うのが、そこに無からなければならぬ。ただ目先、ただ足元のことだけの難儀が解決すれば、それで良いという事ではない。それはその、教祖の神様ご自身が、様々な難儀のなかから、そうした助かりの道を体得され。そして皆んなも、このようなおかげが受けられると、こう、自分がおかげを受けられて、その印を見せておられる。
 しかも皆んなも、このようなおかげが受けられると、こう仰るのでございますから、いうなら、金光大神の助かられ方と言うものをです。私共が、どう言う様な助かられ方をしたのかという事を、一つ知らなければいけないと思うですね。例えば、仏教で言う、お釈迦様ですね。お釈迦様はどうして、この世の中にこの難儀が満ち溢れているだろうかと。第一死ぬるとか病気とか、様々な難儀というのがあるが、その難儀なことを思われたら、もう、じっとしてはおられないと言う様な衝動がです。
 お釈迦様をして、あぁ言う修行に入らせた。そして、菩提寺の元で、悟りを開かれるまでに、相当の年月を難行苦行なさった。そしてやはりこの世の中は、この世と言うのは、やはり苦の世だと。いわゆるまぁ、よごれた汚いところがこの世の中だと。それでこの世の中では、まぁ言うならば仕方がないから、あの世で真実の助かりを頂くために、この世で、いわゆる本当の信心生活をしていかなければならない、と言う様な道を立てる。それは、お釈迦様の助かり方なんだ。翻然として悟りを開かれた。
 そしてそれは、この世ではもう仕方の無いもんだと。けれども確かにあの世があるのだと。だからあの世では、こう言うこの世で生き方をしておかなければ、あの世では助からないんだと言った様な助かり方を、お釈迦様はなさったわけなんです。いわゆる、諦観である。諦めである。もうこの世では仕方がないところである。ね。そして教祖の神様の場合の助かられ方と言うのは、そこに全然まぁ、私は違った助かり方をなさっておられるとこう思うんですね。
 そこにあの、まぁ平凡なようで力強い、幾らもの御教えがございます。日に日に生きるが信心なりと、ね。死ぬる用意より、生きる用意をせよと仰るような、その生き方がですね、希望が持てる。もう日に日に生きる、そのことが信心なのだと。ね。成程次から次と難儀なことが起こってまいります。教祖の身辺に様々な、まぁ七墓を築くような、その難儀が続いてまいります。そういう時にです、やはりその当時の俗信仰でありますところの、あの仏様もこの神様も、大体が根が信心好きのお方でありますから。
 もう様々な神様へ仏様へ、実意を持ってお縋りをなさったり、お参りをなさったりなさっておられます。その当時、今でもそうですけれども、百何年前の日本の信仰の状態というものは、まぁそれこそ、まぁ混沌としたものであった。それこそ、低級な迷信が幅を利かしておるという時代であった。旅立ちをするにも、家を建てるにも結婚をするにも、日柄とか方位とかというものを見なければ、それ一つすら出来ない。
 着物截つにしても、日柄の良いのを見極めなければ、着物を截たないと言った様な時代ですから、それは私共からも想像以上のことであったろうとこう思う。ね。例えば納屋を少し広げられて住まいになさる。それでももう実意丁寧な方でございますから、もう見る所に見て貰い。頼む所に頼まれて、そしてそのこの家を扱う為には、大分この家は空けとかなければいけんと言う訳で、わざわざ納屋のなかで生活をして、その時期の来るのをっ待って、納屋を広げられると言った様な事をなさっておられます。
 いわば実意の限りを尽くしておられるわけですね。それでもやはり次々とその、難儀なことが起こってくる。そう言う様な場合に、例えばその、これはこう言う難儀というのは、金神様の、やはり祟りだと。金神様のお心に叶わないからだという事でその、金神さまへ向かってもう平身低頭、実意をもってお詫びに行き、低姿勢をもってすがっておられるんですね。その当時やはり、金神封じと言った様なものがありましてね。旅立ちを、例えばするのに、そちらがいけないとか言うたにしてもです。
 金神様の方だけよけて通れば良いと、こういう訳なんです。ところがそこんところに、まぁ教祖の神様のお考え方というのがですね。例えば当時言うておった、その金神様と言う方は、えらいその神様であってですね。知って向かえば目を取り、いや知って向かえば命をとり、知らずに向こうても、目を取るというほどの、いわばあらぶる神様であるという事。ね。あの金神様なんかと言った様な、例えば横着な心で行くと、命を取ると言われるほどの神様である。
 例えば知らずに向こうても、目を取ると言う程しの、いわば権威を持ってござる神様であると言う風に言われておられた訳なんですね。ですから命を取られたり、目を取られたりする程しのいわば神様ならばです。目を与えて下さる事も出来るだろう。命を又与えて下さる事も出来る神様に違いはない。ここに教祖の一つの開眼があったですね。もう触らん神に祟りなしと言った様な事じゃなくてです。そういう風ないわば考え方をなさったんです。そこでその金神様へ向かって、あの実意丁寧なご信心をなさった。ね。
 私共、凡夫で相分かりませず、どこにお粗末ご無礼があるやら分かりません。これこれのことの方法を致しました、けれども。それとても人間のすること。どこにお粗末ご無礼があるやら分かりません。どうぞそこのところは、平に平にお許しを頂きまして、どうぞ目を取ったり、命をとられたりするほどの力がある、神様であるならば、どうぞ目を与えて下さるほどの、命を与えて下さるほどのお働きを、おかげを頂かせて下されと言う様な願いをなさった、ね。
 人間生身を持っておりますのでございますから、どこに、お粗末ご無礼があるやら分かりません。ね。いけないところは、どうぞ改めてまいります。もうここんところに、教祖の信心の、真髄があると、こう思うのですね。それで難儀のあるたんべんにです。難儀のあるたんべんに、困ったことのあるたんべんに、教祖の神様ご自身というのは、そのたんべんに、いうならば、改まっておいでられたという事です。
 こう言う様な思い方が、間違いだろう。こういう自分の生き方が、違っておるに違いは無いというて、その実意丁寧をもって、天地乃親神様じゃない、当時は金神様に向かって進まれておられるうちにです、ね。その金神様が、段々その、お向きを変えておいでられた。ね。どうぞ、金神様に向かってですね。こちらのほうでは、そういう悪神、邪神のように、世の中では言うけれども、その悪神邪神と言われるようなあなたが、例えば目を作って下さったり、命を自由になさったりすることの働きを持ってござる。
 その働きの方を見せて下さい。いうならお向きを変えて下され、どうぞお向きを変えて下されと言うて進まれた。それも只あなたが向きを変えて下されではなくて、私自身の向きも変えておいでられたという事です。ね。自分でお気付きになる。こう言う様な事では行くまい。こういう生き方では駄目だ。こういう考え方では行くまい。神様の向きを変えて下されと言うのと同時に、自分自身の向きも変えておいでられたと言う所にです。教祖のいわば、段々助かっておいでられる助かり方と言うのがあるのです。ね。
ですからこそ、御教えの中にもです。信心とは本心の玉を磨くものぞや。信心とは、日々の改まりが第一ぞと、こう仰っておられます。ね。じっと思考する、いわゆる考え抜く。菩提寺の元に、ずうっとその目をつぶって、様々な人間の欲悪煩悩と言った様なものと戦いながらです。長い間この悟りを開かれるために、そういう難行苦行をなさったというのとは、大変意味が違ってくる訳なんですね。
 いわゆる人間のこのもう斜め者。人間が直面しておるその問題がです。問題としてその問題を通してです。ご自身が改まっておいでられ、限りなく磨いておいでられたという事です。そしてその悪神邪神と言われておる、当時のその金神様に向かってですらです。どうぞ、お向きを変えて下されやと言うて、お詫び信心しておいでられた。ね。そこに金神様とばかり思うておった神様が、段々段、天地乃神、天地金乃神という風な現れ方をなさって、そしてその神様が、いよいよ向きを変えてくださった時にはです。
 どうでも、人間いや人間だけではない。生きとし生けるもの一切が、この神様の御恩恵の浴しなければ、生きることすらが出来ないのである。育つことすらが出来んのである。いや、この世だけではない。この世あの世をかけて、この神様のおかげを頂かなければ、立ち行かない神様であるという事を分かられた。ね。だからこそ死んでからと言うて、お世話にならんわけには行くまいが。死に際にもお願いをせよと仰るような事になってきた。生きてる間だけじゃない。
 死んでからとても、この神様へお縋りしなければ、出来んのだ。生きたからと言うて、死んだからというて、この天地から離れる訳にはいけんのだという事なのです。天地を離れてから、私共ここ一寸、実を言うたら動けんのである。天地のお恵みを離れたら、一秒間だって、生きていないという事なんである。ね。そこで天地の御恩徳、天地の御恩恵と言うものを分らせて頂き、その天地の御恩恵に対して、私共が神恩報謝の有難し、勿体無しの生活をさせていただくという事がです。
 教祖の神様のご信心であり、そういう助かられ方。もうこれは、十何年も前の話でございました。ある方が、息子さんがもう非常に極道をする。ね。親不孝の限りを尽くす。まぁ話を聞くなら、本当にこっち側が泣き出そうごとある、その難儀な問題だった。ね。親が細々と暮らして、いわゆる少しばかり貯めておるというと、よそから集金にくるわけなんです。ね。あんたがたん息子さんが、飲んだち言うて飲み代を取りに来る。
 もうその金を持って行かれる時には、先生本当にもう、生身に鉋をかけられる思いぢございますと言われる。ね。一切様々な難儀な時にはです。本当に生身に鉋をかけられるごたる。しかもそれが自分の、いわば子供のために、そういう親が苦しんでおるのですから。いよいよ生身に鉋をかけられる思いが、やはりするだろうとこう思うのです。ですから、そう言う様なです難儀を感ずる時、生身に鉋をかけられるような思いをする時にです。本当に、鉋をかけていかなければ駄目という事です。ね。
 自分の心の上にです。その難儀を感ずるなら、感ずるほどです、ね。自分の生き方というものを、本気で、見極めさせて頂いて、ね。そういう生き方が、人間の幸せになることではないことをです、分からせて頂いたら、それを取り除いていくという事は、ある意味合いにおいて、生身に鉋をかけるようにきつい、辛い事かも知れない。垢を落とせという事でもそうである。磨いていくという事もそうである。けどもそれは、実を言うたら、迷いであって、ね。
 実を言うたらそういう、私共に我情我欲の伴うておる、その我情我欲を取り外して、行こうと言うのであるから。けれどもやはり、こちらに意欲としてはですね。生身に鉋をかけられておるような気持ちの時に、本気で、改まらなければ、改まる時はないというお知らせを頂いた事があるんです。さぁそういう苦しい時でなからなければ、人間な磨かれないぞという事なんです。その苦しい時でなからなければ、本気で、改まりは出来ないぞという事である。
 人間と言うものは、そんなに弱いものなんだ。人よりただの苦しいこと、その事自体がです、ね。本気で改まらせて頂くための、神様の神愛、ね。神様の思いの現れであるという事が分かってくるのです。それを信心のない間は、私だけが貧乏くじを引いているんだ。どうしてこんなに、難儀が続くのであろう。苦しいことは苦しいが、生身に鉋をかけられるような苦しみを、身をしておりながらです、それを磨いていくことであるとも、改まっていくことであるとも分からずに、知らずに。
 やはりそこを一生、やはりこの世は苦の世であり、苦の世界であるとして、この世を忌みごと、いわば嫌われた土地と言う様な観念になってしまって、一生幸せと言うのは、分からんなりに終えてしまわなければならん。この世は苦の世でもない、苦の世界でもない。神愛が満ち溢れたところの世界なのである。今まで難儀と見ておると、その難儀ですらです。神様が氏子かわいいという神愛の表現である。現われなのだ、ね。でそこを悟らせていただく事がです。分からせて頂くことが、私は悟りだとこう思う。
 はぁ神様がこれを取り除き、これを改まって行けというてお出でられるんだという風に、分らせて貰う。ね。教祖の神様の、一つ助かられ方というものはね、そういう助かられ方であったと思う。どうぞ神様どうぞ、おかげ頂かせて下さいと言う事は、どうぞ神様、お向きを変えて下されと言う事なのである。どうぞ、ね。人間凡夫のことでありますから、どこにお粗末ご無礼があるやら分かりません。そこに自分の心と言うものを、掘り下げた上にも、掘り下げていかなければならないという事になるのです。ね。
 そして、こう言うお粗末者である、御無礼者であるというところの自覚に立たなければいけんのです。そこを詫びてわびて、詫び抜いていくのである。ね。どうぞ神様お向きを変えてくだされ。神様だけにお向きを変えて下され、おかげを頂かせて下されとは申しません。私自身も、向きを変えて参りますとと言う事になってこなければいけんのである。向きを変えてくるところに、段々段々ものの見方と言うものが、考え方というものが、頂き方と言うものが変わってくるのである。ね。
 本当にこんな腹の立つことはなかと思うとった、その腹の立つこと自体がです。本当に、有り難涙の流れるようになるから、不思議なんです。ね。そこに、教祖の神様の、助かられ方と言うのがあるんです。ね。仏教の信心をする人は、仏教的な助かり方をなさっていくことも、それで良いでしょう。けど、金光様のご信心に、ご縁を頂いた者は、すべからくがです。た、拝んでお願いをしますというだけじゃなくてです。教祖の神、ご自身が助かりになられた。
 その助かられたその道を、私共も歩かせてもらわなければいけない。その助かられ方の焦点と言うのは、ね。そのいわば、金神様を対象として、拝まれておられたけれども、その金神様というのが、段々向きを変えておいでられるに従って、天地金乃神というところの、それこそ、じがん溢れるばかりの神様であったと。氏子を傷つけたり殺したり、目を抜いたりなさるような非道の神様ではなくてです。ね。
 ただ氏子かわいいという、ご一念に燃えられたところの神様であり、ね。そこんところを、教祖の神様は頂いておいでられた。ね。ですから私共が、本当のおかげ頂くために、本気で私共がです。いうならば、生身に鉋をかけられるごとある思いのする時には、本気でそれだか、がさっと今までの自分と言うものは、鉋かけられよるけん、綺麗になっていかなきゃならんはずでしょうが。
 鉋かけられよるごたると言うだけであってから、一つもこっちが変わって行かなかったら、それはやはり難儀は難儀であるという事。苦しゅうございます、苦しゅうございますと。けれども、けれどもこう、自分が綺麗になっていくという事。それが有難いのである。痛うございます。けれども、有難いというものが、そこに出来てくるわけなんです。ね。苦しいけれども有難い。ね。そしてその苦しみがです、段々取り払われていくところにです。あるものは、ただ有難しという事だけ。
 勿体無しという事だけ。本当に自分ぐらいな者に、このくらいな者に、私ぐらいな者の信心に、かくまでのおかげを頂いて、本当に恐れ多いことだと言う事になってくるのです。ね。どうぞ皆さんが、日々感じられるところの、有難いおかげと言うのは、先ず難儀を感ずるところから、ね。その難儀が改まるということに、磨くということに繋がって、初めて、真実の有難いというものは生まれてくる。どうぞお願いいたしますというて、子供が、おやつを貰うように、ね。
 ただそのおやつを貰うた時だけの有難さと言うような喜びと言った様なものではなくてです。ね。真実の喜び。心から湧いてくるほどの喜び。そういう喜びを頂くために、私は、どうぞ、教祖の神様ではないですけれども、ね。どうぞお向きを変えて下されと言う姿勢が必要である。ためには、こちら自身もです、向きを変えて縋っていかなければならないという事ですね。
   どうぞ。